四国遍路ここが見どころ!

四国88ヶ所霊場に関することいろいろ。

四国遍路にかかわった人々(2)

四国中興の祖と言われた宥辡真念(ゆうべんしんねん)
についてお話したいと思います。

生国など生涯については不明な点が多いのです。
唯一、真念を知る手がかりとしては、真念自身が刊行
した四國徧礼功徳記(しこくへんろくどくき)に「大坂
寺嶋頭陀真念」と記されており、大坂寺嶋を本拠として
活躍した高野聖(修行僧)であったと思われます。

まず真念が、四国中興の祖といわれる由縁は自身が二十数度
の遍路をし、遍路のために多大な功績を残しているからです。
遍路屋(善根宿といってもよい)の建立、標石の造立、道中記
および霊場記の刊行などです。

まず、真念が建立した遍路屋ですが、真念庵(高知県土佐清水市
市野瀬)として今も残っています。
当時は足摺岬(38番金剛福寺)を参詣し、月山(月山神社)に
向う遍路は、大月町を通り39番延光寺へ打ち抜け、月山に行かない
遍路にとっては打ち戻り地点に真念庵があり、足摺参詣の宿所として
大いに役立ったようです。

では、この真念庵はいつのころ建立されたのでしょうか。
寛永15年(1638)の空性法親王四国霊場御巡行記(賢明著)
には、真念庵のことが記されております。
正確な年代は不明ですが、これ以前に建立されたことは事実のようです。

次に、真念の標石の設置ですが、当時は二百基を越す標石を四国中
に設置したとおもわれます。
現在確認されているもので三十基以上が四国の遍路道に残っております。

「四国遍路道指南」(しこくへんろみちしるべ)貞享四年(1687)
の遍路記に{巡礼の道すぢに迷途おほきゆへに、十方の喜捨をはげまし
標石を埋おくなり、東西左右のしるべ并施主の名字刻入墨をすせり。
年月をへて文字落ちれバ、辺路の大徳并其わたりの村翁再治奉仰。}

とあるように、真念の標石には、遍路道の刻字に墨を入れ見やすくし、
左右の刻字で標石の役目をはたしていたのです。

後には、手印がついたり里数・大師像を刻むなど、より分かりやすい
標石にと変換されていくのです。

続いて真念は「四国遍路道指南」貞享四年(1687)を刊行し、江戸
時代の手に持つ道しるべとして庶民遍路に大いに受け入れられたのです。
明治、大正、昭和初期まで「四国遍路道指南増補大成」として改訂
本が刊行されていったのです。

さらに真念は、各札所で取材し、四国遍路を同行した洪卓が描いた
札所の絵図と共に、高野山 宝光院の学僧、寂本に霊場記の編集を
依頼して、元禄二年(1689)「四國徧礼霊場記」
(しこくへんろれいじょうき)七巻が刊行されたのです。

こうして江戸時代の遍路案内書は、ほぼ完成されたのですが、この
案内記には霊験譚、お陰、功徳などが含まれていなかったのです。
そこで真念は元禄三年(1690)四國遍路功徳記 二巻を刊行したのです。

遍路のための三部書が完成したのです。
それまでプロの修行者中心の四国を、大師信仰の遍路という庶民の参加
が可能になったのです。

真念の墓は、85番八栗寺ケーブル麓にちかい洲崎寺にあり、札所の
住職をはじめ今も参詣者が絶えることないそうです。
まさに四国遍路の大先達といえるのではないでしょうか。

本来、四国遍路にかかわった人々としては第一に挙げなければいけない
のですが、コロッと忘れおりました、大変失礼をいたしました。

真念の標石


四国に残る真念の標石の写真です。小さい方の石です。
赤みを帯びた花崗岩で出来ております。

  1. 2008/05/12(月) 11:02:55|
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